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第六話 雨上がりの足音

Author: 月歌
last update Last Updated: 2025-07-31 15:11:16

カフェを出ると、雨はいつの間にか止んでいた。

空はまだ雲に覆われているが、濡れたアスファルトには薄い光が反射し、行き交う人々の足音だけが静かに響いていた。

ふたりの足元からも、しとりとした水音が立つ。

「……雨上がりの匂いって結構すき。湊は?」

「俺も割と好きだな」

遥がぽつりと呟いたので、湊は答えながら少しだけ歩幅を緩めた。

隣を歩く彼女のことを、湊は何年も前から見つめてきた。幼なじみとして、友人として、あるいは、それ以上の感情として。

中学のとき、遥に告白されたことがある。

驚いた。でも、答えはすぐに決まっていた。

湊は「ごめん、俺、男が好きだから」と正直に言った。遥はしばらく沈黙した後、いつものように笑って、「そっか」とだけ返してくれた。

変わらなかった。関係も、距離も、空気も。

それがどれだけ救いになったか、あのときの湊には、うまく言葉にできなかった。

実はその少し前――好きな先輩に想いを伝えて、ひどい言葉で突き放されたことがあった。

「気持ち悪い」「迷惑だ」と言われた。あれは笑えない傷だった。

ーー以来、誰かと深く関わることが怖くなった。

それでも、遥は違った。

だから、彼女が結婚したときは、素直に祝福できなかった。自分でも気づかないまま、寂しさがつのっていた。

あれが情だったのか、それとも愛だったのか――今も答えは出ない。

ただ、こうして並んで歩く彼女の横顔を見ていると、不意に胸が締めつけられる。

湊はふと、背中に“何か”が触れた気がして立ち止まった。

視線。

誰かに見られているような、ぞわりとした感覚。

思わず後ろを振り返る。

濡れた道、雨に滲んだ街灯、遠ざかる車の光――しかし、人影はどこにもない。

「……気のせいか」

小さくつぶやいて視線を戻すと、遥も歩を止めていた。

彼女も、同じように振り返り、湊と同じ方向をじっと見つめている。

その表情は、どこか切なげで――懐かしさすら滲んでいた。

湊も再び背後を見やる。

何があるのか、何を見ているのか。けれど、やはりそこには何もなかった。

「……遥?」

声をかけると、遥はハッとしたように振り返った。

「あっ……ごめん。今……」

彼女は少しだけ迷いながら、言葉を選ぶように目を伏せる。

「……夫の、悠真の声が聞こえた気がして」

その一言に、湊の背中を冷たいものが這った。

もう一度、反射的に後ろを振り返る。けれど、やはり誰もいない。何もない。

なのに、遥の目には――“誰か”が見えていたように思えた。

「……ごめんなさい。変なこと言って……」

うろたえるように言う遥に、湊はそっと手を伸ばした。

「謝るなよ」

彼女の手を握りながら、湊は自分の胸の奥に芽生えた感情を見つめる。

彼女はまだ、心の奥で悠真を想っている。それは当然のことのはずだった。湊自身、何年も彼女の傍で、彼女の哀しみを見てきた。

けれど――

(俺は、悔しいのか?)

心の奥に、チクリと小さな棘が刺さった。いまでも彼女の心の中を占めているのが、自分ではなく、彼――悠真だという現実。その想いが、自分の中にある嫉妬を暴いていく。

もしかしたら、これは――情なんかじゃないのかもしれない。

遥を心配する“幼なじみ”の顔をかぶったまま、ずっと自分を誤魔化してきただけだったのかもしれない。

……でも、それでも。

(もし、彼女が――いつか、俺を見てくれる日が来るなら)

そう願ってしまう自分が、確かにここにいる。

ほんのわずかでも、自分の手に宿った温もりが、彼女の心にも届いていたなら――そんな想いを押し殺しながら、湊はゆっくりと、彼女の手をほどいた。

手のひらが離れる一瞬の寂しさが、胸の奥に静かに染みていく。けれど、遥は何も言わず、ただそっと目を伏せたままだった。

湊はその沈黙を抱えたまま、雨上がりの空を見上げた。

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